当院の歴史
当院のある地は、霧笛の作者であり、横浜市出身の大佛次郎(おさらぎじろう)の生家があった場所です。
その後はある貿易商の家となり、当時では珍しく鉄筋コンクリートと木造でできておりました。戦後は進駐軍がダンスホールとして使っていたと言われており、大きなワンフロアに無垢の板張りがあったそうです。
先代の新井富太郎が、戦災にも負けずに残った建物を、病院としての機能に向くと思い、この地に開業したのが1956年のこと。ページの画像は当時の建築予定外観図です。戦災を逃れた鉄筋コンクリート部分は検査室として改築して、現在も利用しています。
当院の名前は、地域に根ざした医院でありたいという願いを込め、町の名前に由来しています。この町の名前は1243年に開山した東福寺の門が赤門であることが由来となっているそうです。
1995年より現在の院長も加わりました。先代が引退してからも引き続き「まちのお医者さん」として地域の患者の皆さまに寄り添ってまいります。